昔、日本が戦争をしていた時代に「疎開」ということがありました。これは、戦争の危険から子どもたちの命を守るために、都市から安全な地方へ移動する大切な出来事でした。本記事では、小学生のみなさんにもわかりやすい言葉で、疎開がどんなものだったのか、そして疎開した子どもたちがどんな生活を送っていたのかを解説します。
疎開ってなあに?小学生にもわかる言葉で説明するよ

「疎開」という言葉は、普段あまり耳にしないかもしれませんね。でも、これは昔、戦争中にたくさんの子どもたちが経験した、とても大切な出来事です。簡単に言うと、戦争で危険な場所から、安全な場所へ移ることでした。特に、都市部に住む子どもたちが、空襲から命を守るために地方へ移動したことを「学童疎開」と呼びます。
この学童疎開には、親戚を頼って行く「縁故疎開」と、学校の友達や先生と一緒に集団で移動する「集団疎開」の二つの方法がありました。多くの子どもたちが、慣れない土地で新しい生活を始めることになったのです。
疎開とは「安全な場所へ移動すること」
疎開とは、空襲や火災など、戦争による危険から身を守るために、都市に住む人々や大切なものを、安全な地方へ移すことを指します。もともとは軍隊の言葉で、敵の攻撃から身を守るために兵士たちが間隔をあけて行動するという意味がありました。 しかし、第二次世界大戦の終わり頃には、都市が爆撃される危険が高まったため、特に子どもたちを安全な場所へ避難させる政策として広く使われるようになりました。
政府は、子どもたちを将来の戦力として温存するため、そして都市の防空体制を強化するために疎開を促進したのです。
戦争中の「集団疎開」ってどんなものだったの?
集団疎開は、親戚を頼れない子どもたちが、学校の先生に引率されて、友達と一緒に地方のお寺や旅館などで集団生活を送るものでした。 1944年(昭和19年)の夏から本格的に始まり、東京、大阪、横浜、神戸、名古屋などの大都市に住む国民学校(今の小学校)の3年生から6年生が対象となりました。 約40万人以上の子どもたちが、親元を離れて見知らぬ土地へと旅立ちました。
子どもたちは、胸に名札をつけ、防空頭巾をかぶり、配給の白米で作ったおにぎりを持って、長い別れに向かったのです。 この集団疎開は、子どもたちの命を守るという大きな目的がありましたが、慣れない環境での生活は決して楽なものではありませんでした。
なぜ疎開は必要だったの?戦争が子どもたちに与えた影響
戦争は、人々の生活を大きく変えてしまいます。特に、都市に住む子どもたちにとっては、毎日が危険と隣り合わせでした。空襲警報が鳴ると、学校からすぐに家に帰って防空壕に隠れなければならない日々が続いたのです。 そんな中で、政府は子どもたちの命を守るために、疎開という大きな決断をしました。それは、子どもたちが将来を担う大切な存在だったからです。
しかし、疎開は子どもたちから家族との時間や慣れた環境を奪い、心に大きな影響を与えました。
空襲から命を守るため
第二次世界大戦の終わり頃、アメリカ軍のB29爆撃機による日本本土への空襲が激しくなりました。 特に東京をはじめとする大都市は、何度も空襲を受け、たくさんの家が焼けてしまいました。 木造の家が多かった日本では、一度火災が起きると大きな被害が出てしまうため、子どもたちの命が危険にさらされていたのです。 このような状況から、政府は子どもたちを空襲の心配がない農村地帯へ移動させる「学童疎開」を本格的に進めました。
これは、子どもたちの命を何よりも優先し、守るための大切な方法だったのです。
家族と離れて暮らすことになった理由
疎開は、子どもたちの命を守るために必要なことでしたが、同時に家族と離れて暮らすという寂しさや不安を伴うものでした。 当時の政府は、空襲時の救助や消火活動に大人を集中させるため、子どもたちを都市から離すという防空上の狙いも持っていました。 また、都市部では食料が不足しがちだったため、地方であれば比較的食料が手に入りやすいという期待もありました。
しかし、親元を離れて見知らぬ土地で生活することは、子どもたちにとって大きな試練でした。いつ家族に会えるのか、いつ家に帰れるのか分からない状況は、幼い心に深い悲しみを与えたことでしょう。
疎開先での生活はどんな感じだった?子どもたちの日常

疎開先での生活は、都会での暮らしとは全く違うものでした。多くの子どもたちが、親元を離れて初めての集団生活を経験しました。そこには、慣れない環境での戸惑いや寂しさ、そして新しい友達との出会いなど、さまざまな出来事がありました。食料が不足する中で、子どもたちは工夫を凝らして生活を送っていたのです。
田舎での新しい暮らし
疎開先は、都市から100〜200キロメートル離れた農村地帯が多かったようです。 お寺や旅館、公民館などが宿舎となり、20人から50人規模で集団生活を送りました。 子どもたちは、朝早く起きて布団をたたみ、洗面を済ませてから、お寺の本堂で一緒にお経を読んだり、ラジオ体操をしたりと、規律正しい毎日を送っていました。
都会とは違う自然豊かな環境で、農作業を手伝うこともありました。 しかし、慣れない土地での生活は、都会の子どもたちにとって戸惑うことも多かったことでしょう。
学校生活と勉強
疎開先でも、子どもたちは学校に通い、勉強を続けました。地元の国民学校で地元の児童と一緒に学ぶこともあれば、宿舎で先生から授業を受けることもありました。 授業の合間には、勤労奉仕と呼ばれる農作業や、まき拾い、山菜採りなどを手伝うこともありました。 これは、食料不足の中で自分たちの食べるものを確保するためでもありました。
勉強だけでなく、生活に必要な労働も子どもたちの大切な日課だったのです。 厳しい環境の中でも、子どもたちは学びを止めず、たくましく生活していました。
食べ物のこと、遊びのこと
疎開先での食事は、決して豊かなものではありませんでした。食料は全国的に不足しており、疎開児童は余計な負担と見られることもあったようです。 一日あたり2〜3合程度の米と、少量の漬物やサツマイモしかもらえないこともありました。 お腹が空きすぎて、消化剤やお手玉の中の豆、クレヨンなどを食べてしまった子どもたちもいたと伝えられています。
そんな中でも、子どもたちはイタドリなどの草を食べて空腹をしのいだり、野原で遊んだりして、寂しさや不安を乗り越えようとしました。 毎晩、寂しさを紛らわすために演芸会を開き、軍歌を歌ったり、忠臣蔵を演じたりすることもあったそうです。
寂しさや不安、そして友情
親元を離れての生活は、子どもたちにとって大きな寂しさや不安を伴うものでした。 疎開から1週間ほど経つと、ホームシックにかかり、夕方になると涙を流す子どももいたそうです。 家族に会いたい一心で、宿舎を抜け出して家に帰ろうとした子どももいました。 しかし、そんな厳しい状況の中で、子どもたちの間には強い友情が芽生えました。
年上の子が年下の子の面倒を見たり、みんなで協力して生活を送ったりすることで、お互いを支え合ったのです。 先生たちも、親代わりとなって子どもたちの世話をし、病気の子どもにはわずかな食料の中からおかゆを作って看病するなど、温かい心で接していました。
現代にも通じる疎開の教訓と大切なこと

疎開は、過去の出来事ですが、そこから学ぶべき大切な教訓がたくさんあります。戦争の悲惨さだけでなく、困難な状況を乗り越える人々の強さや、助け合う心など、現代を生きる私たちにも通じるメッセージが込められています。この歴史を学ぶことで、平和の尊さや命の大切さを改めて考えるきっかけになるでしょう。
命を守ることの大切さ
疎開の最も大きな目的は、子どもたちの命を空襲から守ることでした。 戦争は、私たちの生活を突然奪い、大切な命を危険にさらします。だからこそ、どんな時でも命を守ることが最も重要だということを、疎開の歴史は教えてくれます。現代でも、地震や台風などの自然災害が起こることがあります。そんな時、どこに避難すれば安全なのか、どうすれば命を守れるのかを考えることは、疎開の経験から学ぶ大切なことです。
助け合う心と感謝の気持ち
疎開先では、子どもたちは親元を離れて集団生活を送りました。慣れない環境の中で、年上の子が年下の子の面倒を見たり、みんなで協力して農作業をしたりと、お互いに助け合いながら生活していました。 また、疎開を受け入れた地方の人々も、食料が不足する中で子どもたちを温かく迎え入れ、支えてくれました。 このように、困難な状況だからこそ、人はお互いを思いやり、助け合うことの大切さを学びます。
そして、支えてくれる人々への感謝の気持ちを持つことも、疎開の歴史が教えてくれる大切な心です。
平和な世界を願う気持ち
疎開の経験は、戦争がいかに悲惨で、人々の生活を破壊するかを私たちに伝えています。子どもたちが親と離れ、不安な日々を送ったのは、戦争があったからです。この歴史を知ることで、二度とこのような悲しい出来事が起こらないように、平和な世界を願う気持ちを強く持つことができます。戦争のない平和な世界を築くために、私たち一人ひとりができることを考え、行動することが大切です。
よくある質問

疎開について、小学生のみなさんや保護者の方からよく聞かれる質問にお答えします。
疎開と避難の違いは何ですか?
「疎開」と「避難」は似ていますが、少し意味が違います。疎開は、主に戦争中に国や自治体の計画に基づいて、都市に集中している人々や物を地方に分散させることを指しました。 特に、子どもたちの命を守るために行われたのが「学童疎開」です。 一方、「避難」は、災害や危険から一時的に安全な場所に身を移すことを指します。
例えば、地震や津波、火山の噴火などの自然災害が起きたときに、安全な場所に移動する行動が避難です。 疎開は戦争という特殊な状況下での長期的な移動を意味することが多く、避難はより広範囲な危険からの緊急的な移動を指すことが多いです。
疎開はいつ頃行われたのですか?
日本における学童疎開は、第二次世界大戦末期の1944年(昭和19年)から本格的に始まりました。 特に、1944年6月30日に政府が「学童疎開促進要綱」を閣議決定し、東京、横浜、大阪、神戸、名古屋、北九州などの国民学校初等科3年生から6年生を対象に制度化されました。 そして、太平洋戦争が終わる1945年8月15日まで続き、疎開先から子どもたちが完全に家に帰ることができたのは、終戦から約3ヶ月後の1945年11月頃でした。
疎開した子どもたちはどうやって家族と連絡を取っていたのですか?
疎開した子どもたちと家族との連絡は、手紙が主な方法でした。しかし、手紙は検閲されることもあり、子どもたちが家族に引き取りに来てほしいと強く願う手紙が投函されないまま残されていた例もあります。 また、定期的に保護者との面会日が設けられることもあり、子どもたちも保護者もこの面会を心待ちにしていました。 しかし、面会は順番で決められていたり、遠い疎開先まで来るのが難しかったりすることも多く、なかなか会えない家族もたくさんいたようです。
疎開先でいじめはありましたか?
残念ながら、疎開先での生活では、いじめや差別があったという証言も残されています。 慣れない土地で、言葉や習慣の違いから、疎開してきた子どもたちが地元の子どもたちからいじめられたり、疎開先の住民から疎まれることもあったようです。 食料不足の中で、疎開児童が「余計な負担」と見なされることもありました。 しかし、その一方で、疎開先の人々が温かく子どもたちを受け入れ、支えてくれたという話もたくさんあります。
困難な状況だからこそ、人々の優しさや厳しさ、さまざまな感情が交錯していたことがわかります。
疎開は日本だけのことだったのですか?
いいえ、疎開は日本だけのことではありませんでした。第二次世界大戦中、本土が大きな被害を受けたドイツやイギリス、ソビエト連邦など、多くの国でも政府の主導による疎開が行われました。 例えば、イギリスでは学童疎開が行われ、フィンランドやドイツでも子どもたちの疎開がありました。 また、中国の国立故宮博物院の貴重な美術品が戦火を避けて疎開された例もあります。
これは、戦争という非常事態において、人々が命や大切なものを守るために世界中で行われた共通の行動だったと言えます。
まとめ
- 疎開は、戦争中に都市の子どもたちが安全な地方へ移動したこと。
- 特に「学童疎開」は、小学生が親元を離れて集団で生活した。
- 空襲から命を守るため、そして将来の戦力を温存するために必要だった。
- 1944年(昭和19年)から終戦まで本格的に行われた。
- 「縁故疎開」は親戚を頼る方法、「集団疎開」は学校単位で移動する方法。
- 疎開先は地方のお寺や旅館などで、規律正しい集団生活を送った。
- 食料は不足し、子どもたちは空腹に苦しむこともあった。
- 農作業や山菜採りなど、生活に必要な労働も日課だった。
- 家族と離れて暮らす寂しさや不安を感じる子どもが多かった。
- 子どもたちの間には、お互いを支え合う強い友情が生まれた。
- 疎開の歴史は、命を守ることの大切さを教えてくれる。
- 困難な状況で助け合う心と、支えへの感謝の気持ちが重要。
- 平和な世界を願う気持ちを強く持つきっかけになる。
- 疎開と避難は意味が異なり、疎開は戦争時の計画的な移動を指す。
- いじめや差別があった一方で、温かい支援もあった。
- 日本だけでなく、世界中の国々で疎開が行われていた。
