日本の歴史を学ぶ上で、一度は耳にする「口分田(くぶんでん)」という言葉。しかし、「具体的に何時代の制度だったのか?」「どのような仕組みだったのか?」と疑問に感じる方も多いのではないでしょうか。本記事では、口分田が導入された時代から、その仕組み、そして廃止に至るまでの歴史をわかりやすく解説します。
この制度が日本の社会にどのような影響を与えたのか、一緒に探っていきましょう。
口分田とは?その時代背景と基本的な仕組み

口分田は、古代日本の律令国家が国民に土地を支給し、税を徴収するために導入した重要な制度です。この制度は、当時の社会構造や経済基盤を理解する上で欠かせない要素でした。
口分田が導入された時代はいつ?
口分田制度は、主に飛鳥時代後期から奈良時代にかけて、律令制が整備される中で確立されました。具体的には、大化の改新(645年)以降に導入された「班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)」という土地制度の中核をなすものでした。この時代は、中国の律令制度を模範として、中央集権的な国家体制を築こうとしていた時期にあたります。
記録上は、8世紀の奈良時代を通じて順調に農地の支給が行われていたとされています。
口分田の目的と班田収授法
口分田制度の最大の目的は、国家が国民を直接支配し、安定した税収を確保することにありました。班田収授法は、6歳以上の男女に口分田を支給し、その代わりに租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)といった税を納めさせるという仕組みです。 土地はあくまで国家のものであり、支給された人々は耕作権を持つだけで、死後には国に返還する義務がありました。
これにより、国家は国民の生活を保障しつつ、財政基盤を強化しようとしました。
口分田の面積と種類
口分田として支給される土地の面積は、男女によって異なりました。一般的に、良民の男子には2段(約24アール)、女子にはその3分の2にあたる1段120歩(約16アール)が与えられました。 また、賤民(せんみん)のうち官戸・公奴婢には良民と同額、家人・私奴婢には良民の3分の1が支給されたとされています。
口分田以外にも、功績や位階に応じて与えられる功田(こうでん)や位田(いでん)といった土地もありましたが、これらは口分田とは異なり、私有が認められる場合もありました。 口分田は、あくまで耕作権のみが与えられる公地という特徴を持っていたのです。
口分田制度の変遷と終焉

口分田制度は、律令国家の基盤を支える重要な制度でしたが、時代の変化とともに様々な課題に直面し、やがてその役割を終えることになります。
墾田永年私財法による変化
口分田制度が揺らぎ始めた大きな要因の一つが、743年に発布された「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」です。これは、新たに開墾した土地は永久に私有を認めるという法律でした。 この法律の導入により、それまで公地公民制を原則としていた土地制度に大きな変化が訪れます。貴族や寺社、有力農民などが積極的に開墾を進め、私有地を拡大していきました。
これにより、国家が国民に均等に土地を支給するという口分田制度の根幹が揺らぎ始めました。
口分田制度が廃止された理由
口分田制度が実質的に機能しなくなったのは、平安時代初期頃とされています。 廃止の主な理由はいくつかあります。まず、人口増加に対して支給できる口分田が不足し、班田収授が滞るようになったことです。 また、墾田永年私財法によって私有地が増加し、国家が把握できる公地が減少したことも大きな要因です。 さらに、税を逃れるために戸籍を偽ったり、土地を捨てて逃亡する農民が増え、律令国家の支配体制が弱体化したことも挙げられます。
これらの複合的な要因により、口分田制度は維持が困難となり、実質的に廃止へと向かいました。
口分田と荘園の関係
口分田制度の衰退と並行して、台頭してきたのが「荘園(しょうえん)」です。荘園は、貴族や寺社が私的に所有・経営する大規模な土地であり、国家の税や支配が及ばない特権を持っていました。 墾田永年私財法によって開墾された土地が荘園の基盤となり、口分田制度が崩壊していく中で、荘園は日本の土地制度の中心となっていきます。
口分田が公地公民制の象徴であったのに対し、荘園は私有地支配の象徴であり、この二つの制度の変遷は、古代から中世への日本の社会構造の変化を色濃く反映しています。
口分田に関するよくある質問
口分田は誰に与えられたのですか?
口分田は、律令制下において、原則として6歳以上の全ての男女に与えられました。 これは、国家が国民を把握し、均等に土地を分配することで、安定した税収と労働力を確保しようとする意図があったためです。ただし、貴族や官人には、口分田とは別に位階に応じた位田などが与えられることもありました。
口分田はなぜ重要だったのですか?
口分田は、律令国家の財政基盤と社会秩序を維持するために非常に重要な制度でした。国民に土地を支給することで、食料生産を安定させ、租庸調という税を徴収することができました。 また、国民が土地に縛られることで、国家は労働力や兵役を確保しやすくなり、中央集権的な支配体制を確立する上で不可欠な要素だったのです。
口分田は現代の土地制度とどう違いますか?
現代の土地制度は、土地の私有が原則であり、売買や相続が自由にできます。これに対し、口分田は国家から貸し与えられるものであり、あくまで耕作権のみが認められ、私有や売買はできませんでした。 また、死後には国に返還されるという点も、現代の相続制度とは大きく異なります。
現代の土地制度が個人の財産権を重視するのに対し、口分田制度は国家による土地の管理と国民支配を目的としていました。
口分田の「口分」とは何を意味しますか?
「口分」とは、文字通り「口(人)の分(分け前)」を意味します。つまり、人頭税的な考え方に基づいて、一人ひとりに割り当てられた田地というニュアンスが込められています。 この言葉からも、口分田が個々の国民に直接関係する制度であったことがうかがえます。
口分田の土地は売買できましたか?
いいえ、口分田の土地は売買することはできませんでした。 口分田は国家から貸し与えられた公地であり、その所有権は国家にありました。国民に認められていたのは、あくまでその土地を耕作し、収穫物を得る権利(耕作権)のみです。 死後には国に返還されるため、相続も原則として認められませんでした。
まとめ
- 口分田は飛鳥時代後期から奈良時代にかけての律令制下で導入された。
- 班田収授法に基づき、国家が国民に土地を支給した。
- 主な目的は安定した税収と中央集権国家の確立だった。
- 男子には2段、女子には1段120歩が支給された。
- 土地の所有権は国家にあり、耕作権のみが与えられた。
- 死後には国に返還されることが義務付けられていた。
- 租・庸・調といった税が口分田の耕作によって徴収された。
- 743年の墾田永年私財法が制度衰退の大きな要因となった。
- 私有地の増加と班田収授の停滞が廃止を早めた。
- 平安時代初期には口分田制度は実質的に機能しなくなった。
- 口分田の衰退と並行して荘園が台頭した。
- 荘園は貴族や寺社が私的に所有・経営する土地だった。
- 口分田は公地公民制の象徴、荘園は私有地支配の象徴。
- 「口分」は「人頭税的な分け前」を意味する。
- 口分田の土地は売買や相続ができなかった。
