百人一首は、日本の古典文学を代表する和歌集として、多くの人々に親しまれています。その中に収められた歌は、作者の個性や時代背景を色濃く映し出し、現代に生きる私たちにも深い感動を与えてくれます。
本記事では、万葉歌人として知られる山上憶良が百人一首に選ばれた歌に焦点を当て、その歌が持つ意味や、歌に込められた憶良の思い、そして彼の生涯や時代背景について詳しく解説します。百人一首の歌をより深く理解し、山上憶良という人物の魅力に触れていきましょう。
山上憶良とはどんな人物?その生涯と時代背景

山上憶良は、奈良時代初期に活躍した歌人であり、その生涯は波乱に満ちていました。彼の歌には、当時の社会情勢や人々の暮らしに対する深い洞察が込められており、他の万葉歌人とは一線を画す独自の歌風を確立しています。憶良の人生を知ることで、彼の歌の背景にある思いをより深く感じ取れるでしょう。
奈良時代の歌人・山上憶良の生い立ち
山上憶良は、斉明天皇6年(660年頃)に生まれたと推定される奈良時代の官人・歌人です。出自については諸説あり、春日氏の一族である山上氏の出身とする説や、百済系の渡来人ではないかという説も唱えられています。憶良の名が歴史に登場するのは、大宝元年(701年)に遣唐使の少録に任命された時で、この時すでに41歳でした。
無位の身分から遣唐使に選ばれたのは、彼の漢語などの学識が買われたためと考えられています。唐での滞在中に儒教や仏教など最先端の学問を学び、その後の彼の思想や歌風に大きな影響を与えました。帰国後、伯耆守や東宮侍講、筑前守といった官職を歴任し、特に筑前守時代には大宰帥の大伴旅人との交流を通じて、多くの優れた歌を残しています。
晩年は病に苦しみ、天平5年(733年頃)に74歳でその生涯を閉じたとされています。
貧しい人々に寄り添った歌風
山上憶良の歌風は、当時の貴族歌人の中では異色を放っていました。彼は仏教や儒教の思想に深く傾倒しており、死、貧困、老い、病といった人生の苦しい側面に敏感で、社会的な矛盾を鋭く観察していました。官人という立場にありながらも、重税に苦しむ農民や、防人として駆り出される夫を見送る妻など、社会の弱者や庶民の生活に寄り添った歌を多く詠んでいます。
特に有名なのが「貧窮問答歌」で、貧しい人々の困窮した暮らしをリアルに描き出し、当時の社会問題を歌を通して訴えかけました。 また、子を思う親の愛情や家族愛をテーマにした歌も多く、その抒情的な感情描写は多くの人々の共感を呼びました。 憶良の歌は、単なる叙景や恋愛を詠むだけでなく、人間の普遍的な感情や社会へのメッセージを込めた、思想性の濃い作品が多いのが特徴です。
憶良が活躍した万葉集の時代
山上憶良が活躍した奈良時代は、日本最古の歌集である『万葉集』が編纂された時代です。万葉集には、天皇から庶民まで幅広い身分の人々の歌が約4500首も収められており、当時の人々の暮らしや感情を今に伝えています。憶良は、柿本人麻呂や大伴旅人、大伴家持らとともに万葉集を代表する歌人の一人として数えられ、約80首の歌が収録されています。
特に、大宰府で大伴旅人と交流を深め、「筑紫歌壇」と呼ばれる歌のグループを形成しました。 この筑紫歌壇では、梅花の宴のような歌会が催され、互いの創作意欲を刺激し合いました。憶良の歌は、万葉集の中でも特に社会性や人間性に富んだ作品として評価されており、現代においてもそのメッセージは色褪せることなく響き続けています。
百人一首に選ばれた山上憶良の歌を深掘り
山上憶良の歌は、百人一首の中でも特に心に響く一首として知られています。この歌は、彼の人生観や人間性が凝縮されたものであり、その背景を知ることで、歌の持つ深い意味をより一層理解できるでしょう。
歌の原文と読み方
山上憶良が百人一首に選ばれた歌は、第十四番に収められています。その歌の原文と読み方は以下の通りです。
- 原文:銀も金も玉も何せむに まされる宝子にしかめやも
- 読み方:しろがねも くがねもたまも なにせむに まされるたから こにしかめやも
この歌は、長歌「瓜食めば子ども思ほゆ 栗食めばまして偲はゆ 何処より来りしものぞ まなかひにもとなかかりて安眠しなさぬ」の反歌として詠まれました。 長歌では、瓜や栗を食べるたびに子どもの顔が思い浮かび、その愛おしさゆえに安眠できない親の心情が切々と歌われています。 そして、この反歌で、その思いが凝縮されて表現されているのです。
歌の現代語訳と込められた意味
山上憶良の百人一首の歌「銀も金も玉も何せむに まされる宝子にしかめやも」は、現代語に訳すと以下のようになります。
「銀も金も、そして美しい玉も、いったい何になろうか。それらよりも勝る宝は、子どもに及ぶものはないのだから。」
この歌には、子どもを思う親の深い愛情と、その愛情が何よりも尊い宝であるという山上憶良の価値観が込められています。世の中のあらゆる財宝よりも、自分の子どもこそが最高の宝であると断言するその言葉は、親であれば誰もが共感する普遍的な感情を表現しています。憶良は、物質的な豊かさよりも精神的な豊かさ、特に家族との絆を重んじる人物であったことが、この歌から強く伝わってきます。
なぜこの歌が百人一首に選ばれたのか
山上憶良の「銀も金も玉も何せむに まされる宝子にしかめやも」が百人一首に選ばれた理由は、その歌が持つ普遍的なテーマと、作者である山上憶良の人間性にあります。百人一首は、時代を超えて人々に愛される名歌を選りすぐった歌集であり、この歌が表現する「子を思う親の愛情」は、いつの時代も変わることのない人間の根源的な感情です。
憶良は、貧しい人々の苦しみに寄り添い、「貧窮問答歌」のような社会派の歌を詠む一方で、家族への深い愛情を歌い上げました。 この歌は、彼の人間味あふれる一面を象徴するものであり、多くの人々の心に響く力を持っています。また、万葉集の歌は、その後の和歌の発展に大きな影響を与え、百人一首の選者である藤原定家も、万葉集の歌を高く評価していました。
憶良の歌は、その文学的価値と、普遍的な共感を呼ぶテーマ性から、百人一首に選ばれるにふさわしい一首だったと言えるでしょう。
歌に込められた山上憶良の深い思い

山上憶良の百人一首の歌は、単なる親子の愛情表現にとどまらず、彼の人生観や社会に対する視点が深く反映されています。彼の他の代表作との関連性や、人間性が垣間見えるエピソードを通して、歌に込められた真の思いを探ってみましょう。
子を思う親の愛情表現
山上憶良の百人一首の歌は、子を思う親の愛情をストレートに表現したものです。彼は「瓜食めば子ども思ほゆ 栗食めばまして偲はゆ」という長歌に続き、この反歌を詠みました。 美味しいものを食べるたびに子どもの顔が目に浮かび、その愛おしさゆえに眠れないという親の心情は、時代を超えて多くの親が共感するのではないでしょうか。
憶良は、子どもがどこから来たのか、なぜこれほどまでに愛おしいのかと問いかけながら、最終的に「銀も金も玉も何せむに まされる宝子にしかめやも」と結論づけています。 これは、物質的な価値よりも、子どもという存在が持つかけがえのない価値を強く訴えかけるものです。当時の社会では、子どもの死も珍しくなく、子を思う親の気持ちは、現代以上に切実なものだったかもしれません。
憶良の歌は、そうした時代背景の中で、子どもの命の尊さ、そして親子の絆の深さを高らかに歌い上げたものと言えるでしょう。
貧窮問答歌との関連性
山上憶良の代表作として「貧窮問答歌」が挙げられますが、この歌と百人一首の歌には、一見すると異なるテーマに見えても、根底に流れる共通の思いがあります。貧窮問答歌は、当時の重税に苦しむ農民の悲惨な生活を問答形式で描き、社会の矛盾を告発する歌です。 一方、百人一首の歌は、子を思う親の愛情を歌っています。しかし、どちらの歌も、弱者や大切な存在への深い共感と、それらを守りたいという強い願いが込められています。
貧しい人々が安心して暮らせる社会、子どもたちが健やかに育つことができる社会を願う憶良の思いは、貧窮問答歌と百人一首の歌、両方の作品に共通するテーマと言えるでしょう。彼は、個人の感情だけでなく、社会全体を見つめ、人々の幸福を願う視点を持っていたのです。
憶良の人間性が垣間見えるエピソード
山上憶良の人間性は、彼の歌だけでなく、いくつかのエピソードからも垣間見ることができます。彼は遣唐使として唐に渡り、最先端の学問を修めましたが、帰国後も下級官人としての生活が長く続きました。しかし、立身出世を強く願っていたとされ、晩年になって伯耆守や筑前守といった地方官職を得た際には、その地位に満足したと言われています。
特に筑前守時代には、大宰帥の大伴旅人との交流が深まり、互いに歌を詠み合う「筑紫歌壇」を形成しました。 旅人の邸宅で開かれた梅花の宴では、憶良も歌を詠んでおり、その歌は「春さればまづ咲くやどの梅の花 独り見つつやはる日暮らさむ」という、梅花の歌32首の中でも特に優れた歌の一つとされています。 また、宴の途中で「憶良らは今は罷らむ子泣くらむ それその母も我を待つらむそ」と詠んで中座したという歌も残されており、ユーモアの中に妻子を思いやる温かい人柄が伝わってきます。
これらのエピソードは、憶良が単なる社会派歌人ではなく、家族を愛し、人との交流を大切にする、人間味あふれる人物であったことを示しています。
山上憶良の他の代表歌と作品

山上憶良は百人一首の歌以外にも、多くの優れた歌を『万葉集』に残しています。彼の代表作を知ることで、その多様な才能と、現代にも通じるメッセージをより深く理解できるでしょう。
万葉集に残る名歌の数々
山上憶良は、『万葉集』に約80首の歌を残しており、その中には百人一首の歌以外にも、後世に語り継がれる名歌が数多くあります。特に有名なのが、前述の「貧窮問答歌」です。 これは、当時の農民の苦しい生活をリアルに描写し、社会の矛盾を鋭く指摘した長歌で、憶良の社会派歌人としての側面を強く示しています。 また、「子らを思ふ歌」として知られる「瓜食めば子ども思ほゆ 栗食めばまして偲はゆ」に始まる長歌と反歌も、親子の愛情を深く歌い上げた作品として有名です。
その他にも、老いや病、死といった人生の普遍的なテーマを扱った歌や、七夕の歌、望郷の歌など、多岐にわたるテーマの歌を詠んでいます。 これらの歌は、憶良の豊かな人間性と、儒教や仏教に裏打ちされた深い思想性を伝えており、万葉集の中でも特に異彩を放っています。
憶良の歌が現代に伝えるメッセージ
山上憶良の歌は、約1300年の時を超えて、現代に生きる私たちにも多くのメッセージを伝えています。彼の歌に共通するのは、人間の普遍的な感情や、社会に対する深い洞察です。例えば、「貧窮問答歌」に描かれた貧困の問題は、形を変えながらも現代社会にも存在し、弱者に寄り添うことの大切さを改めて教えてくれます。
また、百人一首の歌や「子らを思ふ歌」に込められた親子の愛情は、家族の絆の尊さを再認識させてくれるでしょう。 憶良は、官人でありながらも、庶民の目線で世の中を見つめ、その苦しみや喜びを歌に託しました。彼の歌は、物質的な豊かさだけでは満たされない心の豊かさ、そして人間らしい生き方とは何かを問いかけてきます。
現代社会が抱える様々な問題に直面する中で、山上憶良の歌は、私たちに立ち止まって考えるきっかけを与え、より人間らしい社会を築くためのヒントを与えてくれるのではないでしょうか。
よくある質問

- 山上憶良の百人一首の歌番号は何番ですか?
- 山上憶良の百人一首の歌のテーマは何ですか?
- 山上憶良はどんな歌人でしたか?
- 百人一首の山上憶良の歌は万葉集にもありますか?
- 山上憶良の代表作には他にどんなものがありますか?
山上憶良の百人一首の歌番号は何番ですか?
山上憶良の百人一首の歌は、第十四番に収められています。
山上憶良の百人一首の歌のテーマは何ですか?
山上憶良の百人一首の歌のテーマは、子どもを思う親の深い愛情と、子どもこそが何よりも尊い宝であるという価値観です。
山上憶良はどんな歌人でしたか?
山上憶良は、奈良時代初期の官人・歌人です。遣唐使として唐に渡り、儒教や仏教の思想に傾倒しました。貧しい人々に寄り添い、社会問題を題材とした「貧窮問答歌」や、子を思う親の愛情を歌った作品を多く残した、社会派歌人として知られています。
百人一首の山上憶良の歌は万葉集にもありますか?
はい、百人一首に選ばれた山上憶良の歌「銀も金も玉も何せむに まされる宝子にしかめやも」は、『万葉集』巻五に収められている「子らを思ふ歌」の反歌です。
山上憶良の代表作には他にどんなものがありますか?
山上憶良の代表作には、百人一首の歌の他に、当時の農民の苦しい生活を描いた「貧窮問答歌」や、親子の愛情を歌った「子らを思ふ歌」(長歌)などがあります。
まとめ
- 山上憶良は奈良時代初期の官人・歌人で、斉明天皇6年(660年頃)に生まれました。
- 大宝元年(701年)に遣唐使として唐に渡り、儒教や仏教を学びました。
- 帰国後、伯耆守や筑前守などを歴任し、大伴旅人との交流も深めました。
- 天平5年(733年頃)に74歳でその生涯を閉じました。
- 彼の歌風は、人生や社会問題を題材とした重厚な作風が特徴です。
- 特に貧しい人々に寄り添い、社会の矛盾を鋭く観察した歌を多く詠みました。
- 百人一首に選ばれた歌は第十四番「銀も金も玉も何せむに まされる宝子にしかめやも」です。
- この歌は、子どもを思う親の深い愛情と、子どもが最高の宝であるという思いが込められています。
- 代表作には「貧窮問答歌」や「子らを思ふ歌」などがあります。
- 万葉集には約80首の歌が収められており、万葉歌人を代表する一人です。
- 彼の歌は、普遍的な感情や社会へのメッセージを現代に伝えています。
- 「筑紫歌壇」で大伴旅人と交流し、梅花の宴にも参加しました。
- 「憶良らは今は罷らむ子泣くらむ それその母も我を待つらむそ」という歌も有名です。
- 物質的な豊かさよりも精神的な豊かさ、家族との絆を重んじました。
- 彼の歌は、人間の普遍的な感情や社会に対する深い洞察が特徴です。
