古代日本の土地制度「口分田」について、「何歳から支給されたのか」という疑問をお持ちではありませんか?口分田は、律令制のもとで国民に与えられた重要な農地であり、その仕組みは当時の社会や人々の生活に深く関わっていました。本記事では、口分田が支給された年齢をはじめ、その背景にある班田収授法、そして制度の変遷と廃止に至るまでの歴史を分かりやすく解説します。
この制度がどのように機能し、なぜ姿を消していったのかを理解することで、古代日本の社会構造への理解が深まるでしょう。
口分田が支給される年齢と班田収授法の基本

口分田は、古代日本の律令制において、国家が国民に貸し与えた農地を指します。この制度は、当時の社会を支える上で非常に重要な役割を果たしていました。口分田が何歳から支給されたのか、その具体的な年齢と、制度の根幹をなす班田収授法について詳しく見ていきましょう。
口分田は6歳から支給された
口分田は、戸籍に登録された
6歳以上の男女に支給されました
。この年齢は、当時の社会において、ある程度の労働力として期待され始めた時期と重なります。6歳になると、その個人は国家の管理下に置かれ、口分田を耕作する義務と、それに見合った生活の基盤が与えられたのです。支給は一度きりではなく、6年ごとに作成される戸籍に基づいて見直しが行われ、新しく6歳になった人には口分田が与えられ、亡くなった人の口分田は国に返還される仕組みでした。
班田収授法とは?土地制度の根幹をなす仕組み
口分田の支給を定めたのが「班田収授法」です。これは、大化の改新後に導入され、大宝律令(701年)で制度として確立されました。班田収授法は、すべての土地と人民は天皇、つまり国家の所有であるとする「公地公民」の原則に基づいています。国家は、戸籍と計帳(税台帳)を作成し、国民一人ひとりを把握することで、土地を公平に分配し、安定した税収を確保しようとしました。
この制度により、農民は生活の基盤となる土地を得ることができ、国家は徴税の対象を確保するという、双方にとって重要な役割を担っていたのです。
口分田の支給対象者と面積の違い
口分田は、良民(一般の自由民)だけでなく、賤民(奴婢など)にも支給されましたが、その面積には違いがありました。良民の男子には2段(約24アール、または約2380㎡)が与えられ、女子にはその3分の2にあたる1段120歩(約16アール)が支給されました。また、賤民のうち官戸・公奴婢には良民と同額が、家人・私奴婢には良民の3分の1が支給されると定められていました。
この面積の違いは、当時の社会における身分や性別の役割を反映したものであり、国家が細かく土地の分配を管理していたことが分かります。口分田は原則として売買や譲渡、質入れが禁じられており、終身使用が許されるものの、本人が死亡すると国に返還される一代限りの土地でした。
口分田と律令制、そして税の仕組み

口分田は単なる農地ではなく、古代日本の律令制という国家体制の中で、人々の生活と国家財政を支える重要な要素でした。ここでは、口分田が律令制においてどのような役割を担い、どのような税が課せられていたのか、そして口分田が与えられなかった人々についても掘り下げていきます。
律令制における口分田の役割
律令制は、天皇を中心とした中央集権国家を築くための法制度であり、口分田はその根幹をなす制度の一つでした。国家は、口分田を国民に支給することで、農民の生活を安定させ、同時に国家の主要な財源となる税を徴収する基盤を確保しました。口分田の支給は、戸籍に基づいて6年ごとに行われ、これにより国家は人口や土地の状況を常に把握し、効率的な支配体制を維持しようとしました。
この仕組みは、均質な農民層を国家が直接掌握し、安定した社会を築くための
重要な政策だったと言えるでしょう
。
口分田から徴収された税(租・庸・調)
口分田を支給された農民には、国家への納税義務が課せられました。主な税は「租(そ)」「庸(よう)」「調(ちょう)」の三種類で、これらを総称して「租庸調」と呼びます。
- 租(そ):口分田の収穫物から徴収される税で、収穫量の約3%が稲(穂首)として納められました。これは、当時の税率としては比較的低いものでした。
- 庸(よう):地方の役所である国府の命令で、年間60日間程度の労役(土木工事など)に駆り出される義務、またはその代わりに布などを納める税です。
- 調(ちょう):布や地域の特産品などを納める税です。
これらの税は、中央政府の財源となり、官人の給食や国家運営の費用に充てられました。農民にとっては重い負担となることもあり、税負担の軽減を求める声も上がっていました。
口分田が与えられなかった人々
原則として6歳以上の男女に口分田が支給されましたが、一部の人々には口分田が与えられないケースもありました。例えば、貴族や寺社には口分田ではなく、位階に応じた「位田」や職務に応じた「職田」、寺院に与えられる「寺田」などが支給されました。また、死亡した者の口分田は国に収公され、逃亡した農民の口分田も同様に回収されました。
さらに、律令制下では「五色の賤」と呼ばれる身分制度が存在し、私奴婢など一部の賤民には良民の3分の1の面積が支給されるなど、身分によって支給額に差がありました。このように、口分田制度は、当時の社会階層や国家の支配体制を色濃く反映していたのです。
口分田制度の変遷と廃止への道

口分田制度は、古代日本の国家運営を支える重要な柱でしたが、時代とともに様々な問題に直面し、やがてその役割を終えることになります。ここでは、班田収授法の限界、墾田永年私財法の登場、そして口分田制度が廃止されるまでの経緯を詳しく解説します。
班田収授法の限界と社会の変化
班田収授法は、当初こそ機能しましたが、人口増加や社会の変化とともに限界が見え始めました。特に、人口が増えるにつれて、新しく支給する口分田が不足するという問題が深刻化しました。また、支給される土地が遠隔地であったり、条件の悪い土地であったりするケースも少なくありませんでした。農民は重い租庸調の負担に苦しみ、中には戸籍を偽って税から逃れようとする者や、土地を捨てて逃亡する「浮浪」「逃亡」と呼ばれる農民も現れました。
これにより、口分田は荒廃し、国家の税収は不安定になっていきました。このような状況は、班田収授法が
持続可能な制度ではなかったことを示しています
。
墾田永年私財法の登場と口分田制度への影響
口分田の不足と農民の負担増大という問題に対処するため、国家は新たな政策を打ち出します。それが、723年の「三世一身の法」と、743年の「墾田永年私財法」です。三世一身の法は、新しく開墾した土地を三世代にわたって私有することを認めるものでしたが、効果は限定的でした。そこで、より強力なインセンティブとして制定されたのが、
墾田永年私財法です
。この法律は、新たに開墾した土地は永久に私有できると定めたもので、これにより貴族や寺社、有力農民による大規模な開墾が進みました。しかし、これは公地公民の原則を揺るがすものであり、口分田制度の基盤を大きく損なう結果となりました。私有地である荘園が拡大する一方で、国家が班給すべき口分田はますます不足し、班田収授法は形骸化の一途をたどります。
口分田制度の終焉と新たな土地制度へ
墾田永年私財法の施行により、口分田制度は急速に衰退していきました。記録上、全国一斉の班田は800年(延暦19年)を最後に実施されなくなり、10世紀初頭の延喜年間(901~923年)には実質的に廃止されたと考えられています。口分田制度の終焉は、律令制国家の支配体制が大きく変化したことを意味します。土地の私有化が進み、荘園が拡大していく中で、国家はもはや全ての土地と人民を直接管理することが困難になりました。
これにより、日本の土地制度は、口分田を中心とした公地公民制から、荘園公領制へと移行していくことになります。口分田制度の廃止は、古代から中世への移行期における
重要な転換点だったと言えるでしょう
。
よくある質問

- 口分田は何歳から与えられましたか?
- 口分田は誰に与えられましたか?
- 口分田の面積はどれくらいですか?
- 口分田はいつまでありましたか?
- 口分田と墾田永年私財法の関係は何ですか?
- 班田収授法とは何ですか?
- 口分田はなぜ廃止されたのですか?
口分田は何歳から与えられましたか?
口分田は、戸籍に登録された6歳以上の男女に与えられました。これは、当時の律令制において、人々が労働力として認識され、国家の税収を支える対象となる年齢でした。
口分田は誰に与えられましたか?
口分田は、良民(一般の自由民)の男女、そして賤民(官戸・公奴婢、家人・私奴婢)にも与えられました。ただし、身分や性別によって支給される面積には違いがありました。
口分田の面積はどれくらいですか?
良民の男子には2段(約24アール、または約2380㎡)が与えられ、女子にはその3分の2にあたる1段120歩(約16アール)が支給されました。賤民には良民の3分の1の面積が支給されました。
口分田はいつまでありましたか?
口分田制度は、平安時代初期の10世紀初頭(延喜年間、901~923年頃)には実質的に廃止されたと考えられています。全国一斉の班田は800年を最後に実施されなくなりました。
口分田と墾田永年私財法の関係は何ですか?
墾田永年私財法は、新たに開墾した土地を永久に私有することを認める法律で、口分田制度の衰退を早める大きな要因となりました。この法律により、土地の私有化が進み、国家が国民に班給すべき口分田が不足する事態を招きました。
班田収授法とは何ですか?
班田収授法は、大化の改新後に導入され、大宝律令で確立された土地制度です。戸籍に基づいて6歳以上の男女に口分田を貸し与え、その死後に国に返還させることで、土地の公平な分配と安定した税収を目的としました。
口分田はなぜ廃止されたのですか?
口分田制度は、人口増加による口分田の不足、農民の税負担の重さ、そして墾田永年私財法による土地の私有化の進行などが原因で廃止されました。これらの要因が複合的に作用し、制度の維持が困難になったためです。
まとめ
- 口分田は古代日本の律令制における重要な土地制度だった。
- 6歳以上の男女に支給され、生活の基盤を保障した。
- 支給の根拠は「班田収授法」という法律だった。
- 班田収授法は公地公民の原則に基づいていた。
- 良民男子には2段、女子にはその3分の2が支給された。
- 賤民にも支給されたが、良民より少ない面積だった。
- 口分田からは「租・庸・調」という税が徴収された。
- 口分田は一代限りで、死亡すると国に返還された。
- 6年ごとに戸籍に基づいて班給の見直しが行われた。
- 人口増加により口分田が不足する問題が生じた。
- 農民の負担増大や逃亡が制度を揺るがした。
- 「墾田永年私財法」が土地の私有化を促進した。
- 荘園の拡大が口分田制度の形骸化を招いた。
- 10世紀初頭には口分田制度は実質的に廃止された。
